三十六人家集・解説

三十六歌仙のそれぞれの家集の集大成。伝本のなかでは、1112年(天永3)ころの書写と推定される『本願寺本三十六人集』が、三十六人家集としてほぼ完全な姿で伝存する唯一、最古のもので、本願寺証如上人(しょうにょしょうにん)の『天文(てんぶん)日記』(天文18年〈1549〉正月20日条)には、後奈良(ごなら)天皇から下賜されたものと記されている。これは1896年(明治29)歌人で古筆研究家の大口周魚(しゅうぎょ)が京都・西本願寺の庫裡(くり)で発見し、学界に大きな衝撃を与えた。

平安末期書写の原本三十二家集34帖(じょう)と、後世の補写本四家集5帖の計39帖からなる粘葉装(でっちょうそう)の冊子本。いずれも優れた美しい筆跡で、原本の書風は20人の手に分かれる。そのうち「人麿(ひとまろ)集」(早くに逸脱)、「貫之(つらゆき)集上」は藤原定実(さだざね)(1077ころ-1119ころ)、「貫之集下」「中務(なかつかさ)集」「順(したごう)集」はその子定信(1088-1156)、「躬恒(みつね)集」が承香殿女御(じょうきょうでんのにょうご)道子(1042-1132)の筆と推定されるが、そのほかの筆者は不詳である。これらのさまざまに趣向を凝らした華麗な料紙は、平安後期の美術資料としても注目に値する。唐紙(からかみ)、色紙(いろがみ)の交用、金銀の効果、下絵の加飾のほか、ことに、切り継ぎ、破り継ぎ、重ね継ぎの継紙(つぎがみ)の技巧は、他に比類のない画期的なもので、まさに装飾料紙の宝庫といえる。また、1929年(昭和4)に切断分割された「伊勢(いせ)集」および「貫之集下」の断簡は「石山切(いしやまぎれ)」として広く知られている。

ニッポニカ「日本大百科全書」(「Japan Knowledge」)より抜粋