楔形文書七点
人文科学系図書館では、本学図書館所蔵の楔形文書七点を展示いたします。人類最古の文字文化にじかに触れることのできる絶好の機会です。ぜひご来館ください。
展示期間
2004年4月8日(木)~4月20日(火)
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『楔形文書七点』文学部キリスト教学科教授 月本昭男
「カレイ」No.44(立教大学図書館発行 2004年4月発行)より転載
文部科学省・科学研究費の間接経費で購入し、図書館所蔵となった楔形文書七点に関して、簡単な紹介をさせていただこう。
楔形文書とは粘土板に楔形文字を刻んだ文書一般を指す。エジプトの象形文字とならぶ人類最古の文字である楔形文字は、紀元前3200年ころに、メソポタミア文明を築いたシュメル人が考案した絵文字に端を発する。 シュメル絵文字は、その後しばらくして、細く削った葦の茎を粘土板に押しつけてできる縦、横、斜めの三種類の楔形状の線を組み合わせた文字に発達した。 楔形文字と呼ばれるこの文字は、前2000年ころにシュメル人の都市国家が滅亡した後も引き続き紀元前3世紀ころまで、古代オリエントで広く用いられたのである。 言語的には、シュメル語に代わってメソポタミアの主要言語となるアッカド語(バビロニア語とアッシリア語の総称)がこの文字で記された。粘土板は焼き固めれば、半永久に保存することができる。 楔形文字が廃れて2000年以上の時を経た今日でも、イラクおよびその周辺諸国の諸遺跡から大量の粘土板文書が発見され続けているのはそのためである。本学が購入した七点のうち四点は新シュメル時代(前2200~2000年頃)に記された行政文書である。南メソポタミアの都市ウルを中心にして、シュメル人が最後の文明を謳歌したこの時代、とくに経済活動領域において丹念な行政記録が残された。 文書3、4、5は国家で管理する食料庫の出納を物品別に記した日別の記録である。これらの記録は月毎に、より大きな文書にまとめられ、さらに年毎の記録に総計された。比較的大きな文書7は月毎の出納簿のひとつである。他の三点はアッカド語文書。 そのうち文書1と2は、「法典」で有名なハンムラビ王の死後、その支配下から脱した北メソポタミアの都市アプムの王宮倉庫の出納を記録した文書で、その年代は前1750年前後と思われる。文書1などには、表面に「大頭のターバン」二四点をハルム・マニシュなる人物が持ち出したこと、裏面にはそれが「ハビル・ケヌの年、アブムの月一七日」であったことを記している。 それに対して、文書6はサンガラという人物から「わが主人」に宛てたアッカド語の書簡である。文書1と2と同じく、アプムの王宮書庫に保管されていたものと思われる。 「わが主人」とは王を指す。その内容は「わが主人が築いた都市と要塞」(第四行目)をめぐっている。そこから、当時、アプムが周辺のいくつかの都市を支配下においていたことが判明する。その意味で、本文書はハンムラビ王以後の古代メソポタミア史に重要な情報を提供する。 但し、いまのところ、アッカド語を専門とする筆者にも理解しがたい一、二の表現があり、その解明が課題である。
ところで、イラク戦争以後、とくに古代メソポタミアの文化財散逸への危惧が叫ばれ、人類の文化遺産の「救済」を目的とする「文化遺産国際赤十字」運動が世界的に展開している。 海外に流出した文化遺産はまずは公的機関で保管され、公開されることが大切であろう。本文書の場合、シュメル語文書はすでにオスマン帝国時代に海外に流出したものの一部である。アッカド語文書はどのような経緯で海外に流出したのかは不明である。いずれにせよ、こうした文書資料の一端を本学が保管することの意味は少なくない。 世界に散逸する文化財の保護という観点だけでなく、学生諸君が人類最古の文字文化にじかに触れうるという意味でもそうである。
<文章中の文書1~7については上の写真を参照してください>
- 左の2つ=1.2(アッカド語 日別行政文書:紀元前1720年頃)
- 下の3つ=3.4.5(シュメル語 日別行政文書:紀元前2050年頃)
- 右の1つ=6(アッカド語 書簡:紀元前1720年頃)
- 中央の1つ=7(シュメル語 月別行政文書:紀元前2050年頃)