- 『アイデンティティに先行する理性』
- 『民主主義は、いま?-不可能な問いへの8つの思想的介入』
- 『民主主義への憎悪』
- 『ポピュリズムとは何か:民主主義の敵か、改革の希望か』
- 『「感情」の地政学:恐怖・屈辱・希望はいかにして世界を作り変えるか』
- 『定本想像の共同体:ナショナリズムの起源と流行』
- 『境界線の政治学(増補版)』
- 『他者の権利:外国人・居留民・市民』
- 『新戦争論:グローバル時代の組織的暴力』
- 『民族紛争』
- 『平和主義とは何か––政治哲学で考える戦争と平和』
(アマルティア・セン著、細見和志訳、関西学院大学出版2003年)
「あなた」にとって「あなた」は何者かという問いから出発して
自分自身を特定集団の他者と同一化すること(社会的アイデンティティ)には、どのような役割と影響があるのか?アイデンティティとは、発見するものなのか?それとも選択するのか?アイデンティティは不変なのか?人間には自己実現のための「潜在能力」が備わっていると確信するノーベル賞経済学者アマルティア・センが再考する「アイデンティティ論」、その講演録。
(ジョルジョ・アガンベン他著、河村一郎他訳、以文社2011年)
「民主主義者」であるということは、どういうことか?
今日、政治の議論において「民主主義」という言葉を見聞きしない日はない。しかし、その意味については、多様な人々の様々な立場からの議論が絶えない。そこで、本書は次のように問いかける。「あなたにとって、「民主主義者」であると言うことに意味はあるか。意味がないとすれば、なぜか。意味があるとすれば、その言葉のどのような解釈によってか」と。この問いかけに、8人の現代を代表する哲学者が応答する。ここには、民主主義の定義も、用法も見出されない。あなたは、本書の8つの思索から何を見出すだろうか?
(ジャック・ランシエール著、松葉祥一訳、インスクリプト2008年)
民主主義への「不満」の正体とは?
本書は、フランス言論界の「オピニオン・リーダー」らに広がりつつある民主主義を憎悪する論調に警鐘を鳴らす。誰が、なぜ、「憎悪」しているのか?「憎悪」はどのようにして生まれたのか?この「憎悪」は、従来の民主主義「批判」とは異なるのだろうか?出版から10年以上の時間を経てなお、現在でも鋭さを失わない指摘、フランスの哲学者ランシエールによる民主主義への「信頼」の議論。
(水島治郎著、中公新書2016年)
ポピュリズムは政党政治に何をもたらすのか?
近年、ポピュリズムの嵐が吹き荒れている。しかし、ポピュリズムとは一体何を指す説明なのだろうか。「大衆迎合主義」と訳されることもあるが、それは民主主義の一形態なのか、あるいは民主主義と対立する政治的現象なのか。本書は、ヨーロッパ政治史を専門とする著者が、現代のポピュリスト政党や運動の各国比較を通してその特徴を描き出し、ポピュリズムが既存の政治にどのような影響を及ぼしているのかを分析する。
(ドミニク・モイジ著、櫻井祐子訳、早川書房2010年)
「感情」は政治にどう影響するのか?
伝統的な国際政治学や地政学分野では、人々の「感情」は不確かなものとして分析対象とされてこなかった。しかし、本書では、国家や人間集団が自分たちの課題にどのように向き合うかを決定づける、様々な社会的「自信」の在り様を軽妙に描き出す。各国の「感情」を読み解くことができれば、将来の可能性を考えることもできる。2010年出版の本書の締めくくりは、恐れが支配した/希望が支配した「2025年の世界」という2つのシナリオ実験である(第6章)。そこで示された世界はあくまで極端なシナリオだったが、今日、本書を読み解く読者には、まるで現在の国際関係の答え合わせのように感じられるかもしれない。ヨーロッパを代表する国際政治学者モイジが本書に込めたメッセージはシンプルだ。「感情がものを言う」という事実、そして、より重要なことに、感情は変えられる、ということだ。
(ベネディクト・アンダーソン著、白石隆・白石さや訳、書籍工房早山2007年)
ナショナリズム研究の古典的名著
ナショナリズムについて考えを巡らすとき、本書の傑出した研究を無視することはできない。アンダーソンは、近代の国民というものが、想像力によってもたらされたものであると看破する。国民は、限定された範囲の、主権的なイメージとして、つまり、想像の政治共同体として人々の心の中に思い描かれてきた。近代国民国家が発明されてから、過去数百年に渡り、膨大な数の人々が、この想像力の産物のために殺し合い、あるいはすすんで自ら犠牲になっていった。本書は、ナショナリズムがいかにして影響力を持つようになっていったかという問題について様々な角度から議論し、その起源と発展を分析する。
(杉田敦、岩波現代文庫2015年)
境界線を引くとき、政治は始まっている
政治は様々なものに境界線を想定する。日常/非日常、友/敵、正義/不正義など、多くの事柄を境界線を引いて管理しようとする。こうした二分法は、例えば「合意」に関わる示唆を与える。合意とはつねに、限られた集団の内部でのみ成立する。なぜなら、合意が成立したと言うためには、合意の成立に先立って、合意すべき人々の範囲が確定している必要があるためである。しかし、こうした内部/外部の政治的境界線は、厳密な根拠というよりも、様々な経緯によって事実上引かれることが多い。境界線に根拠がない以上、境界線の所在について、様々な異議申し立てがなされる潜在可能性は残る。本書は、境界線を相対化するべきと議論する。「境界線がつねにあることを認めつつ、いかなる境界線も絶対的なものではなく、変えられるものであると考えること」、そうした柔軟な枠組みの思考こそが、政治学から境界線を考えることの大きなテーマになるだろう。
(セイラ・ベンハビブ著、向山恭一訳、法政大学出版2006年)
「よそ者」の権利を実現するのは誰か
グローバル化によって人やモノの様々な形態の移動が加速するなか、厳格な国境は曖昧となり、近代国民国家は動揺してきた。他方で、その反動として国家を再び強化しようとする動きも現れてきた。そうした現状において、政治共同体における構成員資格の新たな様態が問われつつある。本書は、外国人、移民や難民、亡命者などの「他者」を、政体に編入するための原理と実践に焦点をあてる。現実に、この世界では多くの「よそ者」が、「我々」の地域社会に生活しているが、政体の非構成員である「よそ者」の人間的権利は、原理的には構成員である「我々」の手の内にある。「よそ者」に対する現実的な抑圧を無視しないのなら、どのような実践によって「他者の権利」は守られるのだろうか?ある者を「仲間」、ほかの者を「よそ者」と定義してきた近代以降の政治共同体の境界線を、様々な政治思想を紐解きながら丁寧に考察した現代に必読の議論。
(メアリー・カルドー著、山本武彦・渡部正樹訳、岩波書店2003年)
「古い戦争」と「新しい戦争」の暴力を考える
伝統的な国際政治学において、「戦争」とは何よりも国家の営みであった。古典的名著『戦争論』の著者クラウゼヴィッツは、18世紀末から19世紀にかけて、国民国家の近代軍という新たな戦争形態の登場を目の当たりにし、戦争が内包する論理について考察した。一方で、20世紀末の冷戦後の時代に、国家同士の戦争ではない「新しい戦争」の形態の登場を目撃したカルドーは、この戦争に対する新たな分析枠組みを提出しようと試みた。本書は、ボスニア・ヘルツェゴビナにおける武力紛争の事例から、戦争中の当事者が、政治的経済的な理由から勝敗よりもむしろ戦争事業そのものに興味を示すという「新しい戦争」に内在する「終わりのない戦争」の論理を分析する。21世紀の平和と暴力を考えるとき、避けて通れない議論。
(月村太郎著、岩波新書2013年)
民族紛争はどのように始まり、どのように終わるのか?
本書は、現代の「新しい戦争」の一形態としての民族紛争を議論する。「民族」とは何か、「紛争」とは何か、「民族紛争」とは何か、という難問を最初に簡潔に整理し、続いてスリランカ、クロアチアとボスニア、ルワンダ、ナゴルノ・カラバフ、キプロス、コソボの6事例の実態を紹介する。そのあとで、民族紛争の原因や、紛争の過程、紛争予防の可能性を検討していく。本書は、民族紛争の事例と理論の解説を主眼としており、国際紛争について知識を得たい初学者の入門書として優れている。その一方で、本書の構成に意図されているように、まず現実に紛争問題が存在し、それをどのように正確に理解し、そしてどのような解決策を見出していけるのか、そうした現代の国際政治の課題ならびに、読者の問題意識もが問われているように思われる。
(松元雅和著、中公新書2013年)
平和主義者の対話篇
「平和を愛さない人はいないだろう。だが平和主義となるとどうだろうか」平和主義とは、非暴力によって問題解決を目指す姿勢のことである。しかし、その思想や実践は一様ではない。本書は、平和主義と異なる視点を持つ諸学説(義務論、功利主義、正戦論、現実主義、人道的介入主義)との対話を通じて、平和主義という選択肢の持つ論理と決断の問題を浮かび上がらせる。ときに混乱しがちなテーマを、わかりやすく整理した、新書サイズの入門書。