百鬼夜行絵巻

展示作品

絵巻物「百鬼夜行絵巻」(ひゃっきやぎょうえまき)/立教大学人文科学系図書館所蔵

[発行地不明] : [発行者不明] , [江戸中期]写

作品の一部

解説

文学部日本文学科教授 小峯 和明

16世紀の室町時代に作られた妖怪絵巻の傑作。本絵巻はそれをもとにした、18,19世紀頃、江戸時代の模写本。時代も最も古く、できばえのいいのが、京都の禅寺で有名な大徳寺の真珠庵所蔵本で、この系統が最も流布し、模写本も数多い。本絵巻もこの真珠庵本の系統に属するが、色彩があざやかで、真珠庵本とは異なる色の配合が注目される。もともとタイトルはなく、『百鬼夜行絵巻』は通称にすぎない。読みは、「ひゃっきやこう」ではなく、「ひゃっきやぎょう」と読むのが本来の読み方である。「百鬼夜行」とは、文字通りたくさんの鬼たちが深夜に街中を徘徊することをいう。『今昔物語集』などにこの百鬼夜行に遭遇して九死に一生を得る類の説話がいろいろ語られているが、本絵巻は古びた道具が妖怪化したさまを描くわけで、本来の「百鬼夜行」とは異なる。この点がしばしば誤解され混同されている。「百鬼夜行」と『百鬼夜行絵巻』とはまったく別のもので、しいていえば、絵巻の方は「百鬼夜行」のパロディとみなすべきだろう。

古道具の妖怪化には、すでに『付喪神(つくもがみ)絵巻』の作例があり、物にも魂が宿るという発想があってはじめて出てくる。この系統とのかかわりから見ていく必要があるだろう。「妖怪」という語彙は、近代になってからの用語であり、そう古いことばではない。もともとは「妖物」とか「化け物」といわれた。不気味で得体の知れない現象をすべて「怪異」といい、その怪異を掌握し、制圧するために実体化し、名づける、それが怪異への対処法であり、撃退法であった。時代が下がるにつれて、次第に実体化された妖物がキャラクター化したもので、この『百鬼夜行絵巻』は『付喪神絵巻』とならび、そのごく早い例といえる。

『百鬼夜行絵巻』の妖怪たちのもとになった道具類の中には、仏事・神事をもとにしたものや、貴族の女房を装ったものもあり、当時の貴族界をもとにした諷刺的な視線を感じさせる。個々の図像をどう読み解くかは、まだまだ今後の課題として残されている。結末は、太陽の出現らしき火の玉で、妖怪たちがあわてふためき退散するシーンで閉じられる(太陽ではなく、陀羅尼の火の玉だとする説もある)。妖怪の活躍する時間が夜に限られていた、という世界共通の約束事をあらわしているのだろう。

この絵巻は、江戸期にたくさん模写されると同時に、さまざまな異本が生ずる。その系統は複雑で原本を復元することは難しい。真珠庵本自体も原典とはいいがたい。およそ三つの系統に別れるが、それぞれの系統をまぜてつなぎあわせた折衷型も少なくない。ニューヨークのスペンサー・コレクションには、唯一、詞書がついた絵巻があり、これによると、1180年に平清盛が福原に遷都した折り、京都の中納言の屋敷がからになったところへ妖怪たちが住み着き、夜中に暴れ回るのをある人が目撃する、という物語になっている。絵巻の絵画からあらたな物語が作られた、興味深い例である。

江戸時代には、鳥山石燕『画図百鬼夜行』によってこれらの妖物が集大成され、事典化される。妖怪図鑑ないし妖怪百科が誕生する。この石燕の『画図百鬼夜行』に大きな影響を与えたのが『百鬼夜行絵巻』であり、時代を超えてそのキャラクターは受け継がれることになる。石燕に続いて、幕末から明治にかけての河鍋暁斎、そして現代の水木しげるへとひきつがれていく。21世紀を迎えて、妖怪たちもあらたな時代を迎えたといえるだろう。時代ごとに妖怪にとりつかれた人が出てきて、古いものを継承しつつ、あらたな妖怪を生み出し続けてきたといえる。はたしてこれからどんな妖怪が作られていくのだろうか。

この絵巻は近年、関心が高まっている妖怪学とか怪異学と呼ばれる分野の、中心的かつ古典的な題材であり、見えないものを見ようとする人間の生み出した想像力のありかや文化創造の一端としておおいに注目される。個々の妖怪をどう読み解いてゆくか、妖怪たちとのつきあい方が問われている。今後の解読が期待される。皆もその解読ゲームに挑戦してみてはどうだろう。

展示期間

2005年5月22日(土)~ 2005年7月28日(木)

展示場所

人文科学系図書館 1階展示コーナー