1899年(明治32年) | 0歳 | 6月14日大阪市此花町に、開業医栄吉、母ゲンの長男として生まれる。 |
1901年(明治34年) | 2 | 父栄吉死去。 |
1902年(明治35年) | 3 | 母ゲン死去。祖母カネに引き取られる。 |
1909年(明治42年) | 9 | 姉芳子死去。 |
1912年(大正元年) | 13 | 小学校卒業、中学に入ると文学趣味が高じて小説家を志すようになる。 |
1914年(大正3年) | 15 | 祖父死去。これによって肉親すべてと死別、孤児となり、母の実家の黒田家に引き取られる。祖父の死を記録した『十六歳の日記』を記した。 |
1917年(大正6年) | 18 | 一高進学のために上京。9月文科乙類(英文)に入学。 |
1918年(大正7年) | 19 | 伊豆を旅し、旅芸人の一行と道連れになる。『伊豆の踊り子』のもとになる体験である。以後十年ほど毎年のように湯ヶ島に逗留する。 |
1920年(大正9年) | 21 | 東京帝国大学文学部英文学科入学。第六次「新思潮」の発行を計画。 |
1921年(大正10年) | 22 | 伊藤初代との婚約、破棄という出来事が起きる。 |
1922年(大正11年) | 23 | 文学科から国文科に転科。 |
1924年(大正13年) | 25 | 大学卒業。卒業論文「日本小説史小論」、横光利一らと「文芸時代」を創刊。新感覚派として文壇に新風を吹き込む。 |
1926年(昭和元年) | 27 | 松林秀子と暮らし始める。横光・片岡らと新感覚派映画連盟を結成。 |
1927年(昭和2年) | 28 | 『伊豆の踊り子』刊行。最初の新聞小説「海の火祭り」を連載。 |
1929年(昭和4年) | 30 | 文芸時評を盛んに書く。『浅草紅団』を発表、これが評判となる。 |
1933年(昭和8年) | 34 | 『伊豆の踊り子』映画化。 |
1934年(昭和9年) | 35 | 『雪国』連作を書き始める。 |
1935年(昭和10年) | 36 | 芥川賞、直木賞が創設され、選考委員となる。林房雄のすすめで鎌倉浄明寺に転居、以後終生鎌倉住まいとなる。 |
1937年(昭和12年) | 38 | 『雪国』初版を刊行、文芸懇話会賞を受ける。 |
1938年(昭和13年) | 39 | 改造社版『川端康成選集』の刊行開始。 |
1942年(昭和17年) | 43 | 季刊雑誌「八雲」を刊行、『名人』を執筆・掲載。 |
1944年(昭和19年) | 45 | 『故園』『夕日』などで菊池寛賞を受賞、戦局厳しくなり、原稿発表の機会も途絶える。 |
1945年(昭和20年) | 46 | 娘と共に玉音放送を自宅で聞く。久米正雄、小林秀雄、高見順らと蔵書を持ち寄り、貸本屋鎌倉文庫を開く。 |
1946年(昭和21年) | 47 | 三島由紀夫の訪問を受けて「煙草」を雑誌「人間」に掲載する。 |
1947年(昭和22年) | 48 | ペンクラブ再建集会に出席。13年をへて『雪国』を完成。 |
1949年(昭和24年) | 50 | 『千羽鶴』、『山の音』を平行して分載発表し始める。ペンクラブを代表して原爆被災地を見て回る。 |
1952年(昭和27年) | 53 | 『千羽鶴』を刊行、芸術院賞を受賞 |
1953年(昭和28年) | 54 | 芸術院会員となる。 |
1954年(昭和29年) | 55 | 『山の音』を完結、野間文芸賞を受賞。 |
1957年(昭和32年) | 58 | ヨーロッパ、アジアを歴訪、国際ペンクラブ東京大会開催。 |
1961年(昭和36年) | 62 | 『古都』『美しさと哀しみと』の執筆、文化勲章受賞。 |
1962年(昭和37年) | 63 | 睡眠薬中毒のため入院、世界平和アピール七人委員会に参加。『眠れる美女』によって毎日出版文化賞受賞。 |
1967年(昭和42年) | 68 | 中国文化大革命に対する自由擁護のアピールを三島らと出す。 |
1968年(昭和43年) | 69 | 日本人として最初のノーベル文学賞受賞、記念講演「美しい日本の私−その序説」をおこなった。 |
1970年(昭和45年) | 71 | 三島由紀夫割腹自殺、葬儀委員長となる。 |
1972年(昭和47年) | 72 | 盲腸炎のため手術、自宅で静養していたが4月16日仕事部屋にしていた逗子のマンションでガス自殺しているのが発見された。 |
参考文献:大久保喬樹『川端康成』ミネルヴァ書房 2004