堀達之助について

 

 堀達之助は、文政6年(1823年)に蘭通詞・中山作三郎武徳と陳の五男として長崎で生まれた。後に蘭通詞・堀儀左衛門政信の娘・房(ふさ)と結婚して堀家を嗣いだ。弘化2年(1845年)、小通詞末席となる。翌年には長崎を出立し、5月には浦賀に来航したアメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルの通訳を務める。さらに、嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリー来航時には浦賀奉行所与力・中島三郎助とともに交渉に当たった。この時、アメリカ艦隊の旗艦サスケハナ号に対して、"I can speak Dutch!"(私はオランダ語が話せる)と叫んだと言われ、アメリカ側通訳のオランダ人アントン・ポートマン(後に駐日米国代理公使)を介してオランダ語で交渉を行った。安政元年(1854年)のアメリカ合衆国東インド艦隊の再来航では、大通詞の森山栄之助が主席通詞に任じられ、小通詞の達之助は次席通詞として通訳を務めた。

 その後は下田詰めとなったが、1855年10月にはプロイセンの通商要求書簡を独断で処理しようとしたと咎められたこと(リュードルフ事件)で入牢処分となった。この事件は冤罪とも言われており、獄中では吉田松陰と文通をしていたという。洋学所頭取古賀謹一郎の二度にわたる出獄要請にもかかわらず、四年間江戸小伝馬町で入牢生活を送った。安政6年(1859年)10月29日に出獄を許された。吉田松陰処刑の2日後のことであった。その年の12月には蕃所調所翻訳方に任じられ、蕃書調所対訳辞書編輯主任となった。万延元年(1860年)には筆記方も兼務して、外国新聞の翻訳作業にあたり、その成果は文久2年(1862年)日本初の新聞「官板バタビヤ新聞」の発行として現れている。一方で、文久元年(1861年)に西周とともに教授方に就任し、翌年には主任となって、印刷本としては日本初の英和辞書『英和対訳袖珍辞書』を洋書調所より刊行した。文久3年(1863年)には開成所教授、慶応元(1865)年には箱館出役を発令され、明治5(1872)年に開拓使を依願退職し、1894(明治27)年に没した。

沖森卓也(立教大学文学部教授)