「源実朝」手稿について
立教大学文学部文学科日本文学専修 教授 加藤睦
『源実朝』草稿とは、近代アララギ派歌人の斎藤茂吉が著した論考『源実朝』(岩波書店、1943)の自筆草稿である。
鎌倉幕府三代将軍として知られる源実朝であるが、近世中期に賀茂真淵によって万葉調歌人として顕彰されて以来、正岡子規や斎藤茂吉といった近代歌人に至るまで、歌人としても極めて高い評価がなされてきた。茂吉は、岩波文庫版『金槐和歌集』校訂に携わり、また『金槐集私鈔』(春陽堂、1926)や前記『源実朝』を著すなど、実朝顕彰に情熱を注いだことに加え、詠歌にも『金槐和歌集』所収歌を踏まえたものが見出せるなど、茂吉と『金槐和歌集』の関係は一層検討されてしかるべきであろう。
『源実朝』の草稿は、茂吉の自筆資料であり、資料的価値の高さは言を俟たない。また、草稿に施された茂吉自身による夥しい訂正からは、推敲の様相を窺うことができ、雑誌連載稿との比較と併せて、改稿過程や茂吉の関心の在処を探る端緒ともなろう。一方、近時写本を中心とした資料が鶴見大学図書館に入り、日の目を見ることとなった『金槐和歌集』の斎藤家旧蔵書群だが、このたび購入を申請する板本等 19 点は、そのツレともいうべく、茂吉の実朝研究の全貌を明らめるうえで欠くことのできない資料である。その多くは、近世中後期に広く流布し、現在 70 点以上の伝本が確認できる真淵評注本系統『金槐和歌集』(真淵の書入や真淵が秀歌に記した丸印を有する系統の本)であり、茂吉の実朝研究の検討に資するのみならず、近世中後期における実朝評価を窺ううえでも、また真淵学の受容を考えるうえでも、斎藤家旧蔵書群は実に有益である。
このように、『源実朝』草稿と斎藤家旧蔵の『金槐和歌集』諸本は、(1)茂吉研究や近代短歌の研究に資するのみならず、(2)源実朝や『金槐和歌集』の受容史を考えるうえでも、(3)真淵の実朝研究とその近世中後期から近代に至る伝播の様相を探るうえでも、貴重な情報源である。