アーサー・ロイド について

アーサー・ロイド


 英国人アーサー・ロイドは、英国教会系ミッションSPG(Society for the Propagation of the Gospel. 福音宣教協会)宣教師として1884(明治17)年に来日、10年後の1894(明治27)年からは米国聖公会内外伝道協会(Domestic and Foreign Missionary Society of the Protestant Episcopal Church in the USA)宣教師として1903(明治36)年までの9年間を伝道事業に従事した。
 ケンブリッジ大学を優秀な成績で卒業したロイドは、学士、文学修士を取得、15か国語に通じていたといわれ、来日わずか7か月目には早くも日本語で説教をおこなっている。福澤諭吉から慶應義塾の教員のなかで唯一真の学者と当初から認められていたロイドは、慶應義塾で11年にわたり(1885-1890 / 1893-1898 / 1904)教鞭をとった。
 さらに、米国聖公会在日ミッション統括者ジョン・マキムに請われて、同派経営の立教学院で5年半(1897.12 - 1903.4)にわたり学院総理を務めた。この間ロイドは、政府認可校において宗教教育を禁じる1899(明治32)年の文部省訓令12号問題に対し、間接的であれ学内で一定のキリスト教教育が可能であれば訓令を順守するという方針で乗り切った。その結果認可校として存続した立教は、上級学校への進学資格や徴兵猶予の特典を維持することが出来た。それと同時に、ロイドは立教における一般教育を強化する教育方針をとり、立教中学校を、訓令発布1年後の高等学校入学試験で受験者(11人)全員が合格した唯一の学校に成長させた。受験生の半分以上が合格した学校はほかになく、これは全国で最上位の成績であった。
 こうして当代日本における最大のミッション・スクールとなった立教中学校は、その後の専門学校令による立教学院立教大学設立(1907年)への道を切り開く、大きな要因ともなったのである。
 ロイドは慶應、立教のほかに、海軍医学校、海軍兵学校(Naval Academy)、東京専門学校(現・早稲田大学)、東京高等商学校(現・一橋大学)、東京帝国大学(現・東京大学)でもラフカディオ・ハーン後任の英文学教授として教壇に立っている。
 ロイドは、尾崎紅葉の『金色夜叉』、徳富蘆花の『自然と人生』などの英訳書や一連の仏教研究書を刊行しており、第二次世界大戦後の1956年においてもロイドの仏教研究所は必読書とされていた。日本アジア協会発行『紀要』(Transactions of the Asiatic Society of Japan)への諸論稿や、日本関連の諸著も多数公刊した学者として知られた人物でもあった。
 1911年10月27日に永眠したロイドの葬儀には、教育界や宗教界から総勢300余人が参列して哀悼し、ロイドが異国日本で広く認知されたことが示された。

(立教大学学院史資料センター)

 

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