「源実朝」についての論考(正岡子規、斎藤茂吉、小林秀雄、吉本隆明)


 

正岡子規著『歌よみに与ふる書』岩波文庫 1983 年改版より(初版 1955 年) 

※初出:雑誌『日本』明治 31 年 2 月 12 日~3 月 4 日に連載

・「歌よみに与ふる書」

 ” 仰(おおせ)せの如く近来和歌は一向に振ひ不申(もうさず)候。正直に申し候へば万葉以来実朝(さねとも) 以来一向に振ひ不申候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからとういふ処にてあへなき最期を遂げられ誠 に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。”

・「八(や)たび歌よみに与ふる書」
 ” 武士(もののふ)の矢並つくろふ小手の上に霰(あられ)たばしる那須の篠原この歌の趣味は誰しも面白しと思ふべく、またかくの如き趣向が 和歌には極めて珍しき事も知らぬ者はあるまじく、またこの歌が強き歌なる事も分りをり候へども、この種の句法が殆ど この歌に限るほどの特色を為しをるとは知らぬ人ぞ多く候べき。普通に歌はなり、けり、らん、かな、けれ抔(など)の如き助辞を以て斡旋(あっせん)せらるるにて名詞の少きが常なるに、この歌に限りては名詞極めて多く、「てにをは」は「の」の字三、「に」の字一、二個の動詞も現在になり(動詞の 最(もっとも)短き形)をり候。・・・

 

斎藤茂吉校訂『金槐和歌集』岩波文庫 1963 年改版 解説より(初版 1929 年)

 ”金槐集は、一に金槐和歌集、鎌倉右大臣歌集といい、鎌倉三代将軍実朝(さねとも)の家集である。金は鎌倉の鎌の偏を取り、槐(かい)は、面ニ槐一三公位焉などといって大臣の意味になるから、金槐集は鎌倉右大臣歌集ということになるのである。

 金槐集の流布本には、貞享(じょうきょう)四年刊行の三冊本(貞享本)と群書類従巻ニ三ニ所収のもの(類 従本)の二とおりあって、語句、順序、歌に多少の差がある。そのほか一二の写本があるが、いずれかの系統に属するものと見做(みな)していい。・・・

 実朝は建久三年八月九日に生れ、十二歳のとき、兄の頼家の後を襲うて鎌倉三代将軍になった。建保六年、実朝二十七歳にして右大臣に任ぜられ、翌、建保7年正月二十七日、鶴岳(つるがおか)八幡に拝賀した帰に、公暁(くぎょう)(※実朝の甥にあたる)のために殺された。すなわち、実朝は二十八歳の正月に歿したのである。・・・

 そこで、実朝は、新古今集を読み、古今集を読み、藤原定家の教を受けながら、万葉集を得て、これらの家集から多くの影響を受け、その歌を本歌として本歌取(ほんかどり)の歌を盛に作っている。その間に実朝独自の歌境を表出しているが、実はいまだ初途にあったものと見做(みな)すべきである。つまり、実朝は歌人としてもいまだ初途にあって、殺されたと謂うべきである。・・・

 

小林秀雄『実朝』(『モオツァルト・無常という事』新潮文庫 2006 年改版より)

※初出:「文學界」昭和 18 年 2 月号

 ”芭蕉は、弟子の木(ぼく)節(せつ)に、「中節の歌人は誰なるや」と問われ、言下に「西行と鎌倉右大臣ならん」と答えたそうである(「俳諧一葉集」)。言うまでもなく、これは、有名な真(ま)淵(ぶち)の実朝発見より余程古い事である。それだけの話と言って了(しま)えば、それまでだが、僕には、何か其処(そこ)に万葉流の大歌人という様な考えに煩(わずら)わされぬ純粋な芭蕉の鑑識が光っている様に感じられ、興味ある伝説と思う。必度(きっと)、本当にそう言ったのであろう。僕等は西行と実朝とをまるで違った歌人の様に考え勝ちだが、実は非常によく似たところのある詩魂なのである。
(中略)
 箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆこの所謂(いわゆる) 万葉調と言われる彼の有名な歌を、僕は大変悲しい歌と読む。実朝研究家達は、この歌が二所詣(※伊豆権現と箱根権現の参詣)の途次、詠まれたものと推定している。恐らく推定は正しいであろう。彼が箱根権現に何を祈ってきた帰りなのか。僕には詞書(ことばがき) にさえ、彼の孤独が感じられる。悲しい心には、歌は悲しい調べを伝えるのだろうか。・・・”

 

吉本隆明著『源実朝』日本詩人選 12 筑摩書房 1971 より

”箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ
大海の磯もとゞろによする波われてくだけて裂けて散るかも
玉くしげ箱根の海はけゝれあれや二山にかけて何かたゆたふ
旅をゆきし跡の宿守をれをれにわたくしあれや今朝はいまだ来ぬ
わたつ海のなかに向かひて出(いづ)る湯の伊豆のお山とむべもいひけり

 いずれも実朝の最高の作品といってよい。また真淵のように表面的に『万葉』調といっても嘘ではないかもしれない。しかし、わたしには途方もないニヒリズムの歌とうけとれる。悲しみも哀れも<心>を叙する心もない。ただ眼前の風景を<事実>としてうけとり、そこにそういう光景があり、また由緒があり、感懐があるから、それを<事実>として詠むだけだというような無感情の貌がみえるようにおもわれる。
(中略)

ものゝふの矢並つくろふ籠手(こて)の上に霰(あられ)たばしる那須の篠原

 「ものゝふの矢並つくろふ」は真淵もあげ、子規も引用している周知の歌だが、かれらのいうこの万葉調の力強い歌は、けっしてそうはできていない。名目だけとはいえ征夷将軍であったものが、配下の武士たちの合戦の演習を写実した歌とみても、そういう情景の想像歌としてみても、あまりに無関心が<事実>を叙している歌にしかなっていない。冷静に武士たちの演習を眺めている将軍を、もうひとりの将軍が視ているとでもいうべきか。・・・